東京大空襲と日中友好協会 一人ひとりがメディアだ企画

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2018年2月15日一人ひとりがメディアだ企画として認定NPO法人東京都日中友好協会の栗山眞之(くりやま まさゆき)理事長にお話しを伺いました。

プロフィール:

1939年(昭和14年)東京生まれ、61年都庁就職し、高度成長下の東京の都市基盤の整備にかかわり98年建設局次長で退職。2010年認定NPO法人東京都日中友好協会参与、12年事務局長、17年6月から理事長

1 東京大空襲について

1939年9月に当時の東京市本所区業平橋4丁目で出生。東京大空襲については、73年ぶりに話をする。今まで一切他の人に話をしたことがなかった。

当時、国民学校の4年生以上は強制疎開。それ以外は縁故疎開、両親と一緒ということが選べた。東京大空襲の当日は、自分と10か月の弟が母親といた。

空襲警報は嫌な、地獄の知らせのようなサイレン。今でもその音を聞くと昔を思い出す。

深夜12時ちょっと過ぎに爆撃開始。母親にたたき起こされて、当時の常としては、死への装いとするよそ行きの着物を着させられて避難した。そのため、靴も編み上げの靴をはかされる。玄関ではく余裕はなく、家の中のたたみではいた。しかし、子供心にそれに納得いかずもたもたしていたら母親にしかられた記憶がある。

そのようなことで、避難が遅くなったので、周囲の人たちは先に避難してしまい、置いてけぼりになった。しかし、結果としてそれが良かった。後で聞くといつもの避難場所に行っていたら全滅していた。決められた避難場所は小学校の講堂・校庭、校庭へ避難した人はまる焦げ、校舎の中の人は酸欠で全員亡くなったという。

母親が普段とは違う防空壕に拝み倒して入れてもらった。壕は開けると熱風が入るのでしぶっていたが、女性と幼子ということで入れてもらえたのだと思う。当時向島区で被災された半藤一利(元文春編集長)の話では、本所、深川は全滅と言っていた。私たちは例外になる。南千住方面に避難して助かった。言問橋などへ行っていたら、対岸の浅草も燃えているので、混雑の中逃げる人たちに押されて踏み殺されていた。亡くなった方々は男か女かもわからず、真っ黒だった。熱風で焼けたトタン板が空に舞っていた中を逃げた。

しかし、母親は心労が大きかったようで、終戦の翌年39歳で病て亡くなった。

 

2 東京大空襲を経験して

なぜ、東京大空襲という日が来たのかということを考え、その後折にふれ学んだ。

1)空襲による都市への無差別爆撃は戦時とはいえ許されるのか。

第1次世界大戦で戦車、飛行機、毒ガスが使われた。その惨禍をうけた欧州の国々で1923年にハーグで空戦規則ができた。そこで市民への無差別爆撃は禁止された。日本も調印している。同時に陸戦規則、海戦規則も決められている。

2)空襲の記録

1937年にゲルニカ爆撃をドイツが行う。死者1,654人。

1938年に重慶爆撃を日本が行っている。死者12,000人。

1945年2月にドレスデン爆撃を英国が行い、死者35,000人。

1945年3月10日に米国による東京大空襲で80,000人

1945年8月 米国による広島の原爆で14万人、長崎の原爆で7万人。

3)日本への空襲の被害

死者等の被害状況は調査資料によって数値が違う。東京区部だとどの資料でも大体9.5万人になる。1944年の11月以降は高度精密爆撃ということで、高いところから軍事施設・軍事工場などへ爆弾を落とすので命中率は7%。1945年3月10日からは2期ということで、大都市無差別爆撃。3期目は6月からは中小都市無差別爆撃で66都市が終戦まで続いた。最後は8月原子爆弾が広島、長崎に投下され終戦を迎えた。

4)3月10日の東京大空襲は午前0時から2時半までの爆撃。大本営はB29が180機と発表していたが、アメリカだと300機以上と発表している。戦争では情報操作をするので。本当の数値がわからない。米国の戦略爆撃調査団の報告では、1回の出撃による通常爆弾の空襲で、これほど大きな人的被害と物的破壊を与えたものはないといわれる。だいたい10万人が亡くなっている。

B29はマリアナ諸島から来た。5500キロが飛行距離。マリアナ諸島から東京は片道2500キロなので往復爆撃ができる。延べ5000機ぐらいが来た。北海道は距離的に遠いので空母から発進したものだけが来た。3月10日に浅草寺が全焼。その後明治神宮も焼け、明治宮殿(皇居)も焼けている。

空襲を生き延べても終戦後の方が大変だった。生きているものには食料がない。住む家がない。死者約5万余人の処理が大変だった。。東京拘置所の囚人などを動員して、軍隊、警察など公園、公共用地などに穴を掘って全部埋めた。上野の山もそう。隅田川の水死体は、ガソリンをまいて燃やしたという。隅田川以東の被災地へは立ち入れ禁止だった。

5)東京大空襲の目撃談

①下河辺淳(国土計画の父)は学徒動員で警視庁にいって空襲に焼かれた街を調査した。その時の話を書いている。自分の身に火がついていてもわからないという女性がいたということだった。復興院から建設省にいって、日本の国土計画をつくった人。空襲は無差別爆撃とはいえ。火災が風向きでどう効率的に火を広げるかを算出して、きわめて効率的に行っている。そのための算出方式があったという。ユタ州に日本家屋を作って延焼の実験もしている。アメリカは周到に準備をしていたのだ。。

当時の日本は昭和12年に防空法ができている。火が来たら消せということで、逃げたら非国民になってしまう。しかし、焼夷弾は簡単には消せない。800度の火のものになる。  しかし、日本の法律では逃げられない。結果、命を落とした。バケツリレーでは消せない。東京大空襲を受けて、空襲での火事の場合は逃げて良いということになった。もっと早くなっていれば、9万も死ななかったはず。

②後藤田正晴が東京大空襲の際、B29は低空で来て無差別爆撃を行い、それを見て日本が負けることを痛感したといっている。内務省の職員から召集され台湾に派遣されていたが偶々東京に出張中。九段会館(軍人会館)で泊まっていて、屋上から爆撃を見ていた。B29は1000~1500Mの低空で来て、高射砲は当たらない。迎撃の日本側の飛行機はなかった。1機だけB29が火をふいているのを見たという。自身は靖国神社へ行って逃げ延びた。靖国神社だけは焼けないように消防隊がずっと放水されていたという。

3月10日は陸軍記念日。40年前の日露戦争で奉天海戦があって勝ったという軍にとっては記念すべき日。それを狙ってアメリカはやってきたのではないか。

6)空襲についての国際裁判所の判例ではどうなったか。

軒を並べて軍事産業に従事していたから市民全部が敵軍に準じるので、国際法違反に該当しないとされている。日本も重慶爆撃をやるべきではなかった。そのしっぺ返しを受けた形になる。

7)空襲の教訓

1990年に東京都は3月10日を平和の日とする条例を制定した。

戦争の惨禍を再び繰り返さない、犠牲者の追悼、そして平和意識の高揚を目的とする、

1949年3月23日に太平洋戦争による我が国の被害総合報告書(経済安定本部:このデータが一番詳しい。)がある。空襲は日本全国被害で受けた。東京だけではない。みんなが地獄の経験をした。スクラムを組んで平和を維持しなくてはいけない。

無縁となった犠牲者5万余人は3か月かけてお骨にして、震災記念堂の大型の骨壺に納め追悼を行った。

 昭和館の戦争関係のイベントなどは毎回いっている。というのも、東京大空襲では多くの幼児たちがなくなっている。生死紙一重とはいえ運が良くなければ助からない状態だった。アメリカの新聞ではこれで東京の人々は東京から逃げ出し、崩壊するだろうと書いているそうである。

 

3 終戦後の生活

終戦直後にアメリカから余剰農産物が来たが、その頃は家畜のえさレベルのものが来た。給食は小学校5年生から開始された。ブルーシートで暮らしている今のホームレス以下の生活の人がたくさんいた。浮浪児は上野駅地下道に集まっていた。

終戦後は上野で育った。学校に行っても1クラスしか子どもがいなかった。校舎の大半は雨がしのげるため。引き上げの人たちが住んでいた。

屋上に土を持って行って、菜園にしていた。書道は禁止。剣道、柔道も軍国主義的なものとして禁止だった。入った時は国民学校の最後の年だった。その後アメリカから教育使節団が来て、1947年から新制の6・3制になった。

その後、1950年に朝鮮戦争が始まる。これで特需があって、経済的に落ち着いた人もいるというが、そういう実感はない。いつ攻めてこられるかわからない不安な状態だった。国連軍がプサンまで追い詰められていて、日本も旧軍人が行って戦死者が出ている。当時の日本は丸裸で、戦災で何もなかったので徹底的にやられると思った。

仁川に国連軍が入って、補給線が切れたので押し返せた。

戦後復興は昭和40年代にようやく実感できた。30年代には都内にはまだ焼けたビルが多かった。そして、そこに人が住んでいた。

 被災者への救済は、国家補償を定めようと1972年に戦時災害援護法が出されたが、廃案になった。戦後60年ぐらい経ってから戦災者が国家賠償をということで裁判に訴えたが、1審(2009年)、2審(2012年)も負けた。その理由が国民全員が何らかの被害を受けているので、裁判所がその被害者を選別するのが困難。また、救済は政治的判断に任せるのが良い。とされ救済はなされなかった。

 戦後の耐乏生活は、当時がれきの山がとてもたくさんあった。大通りの交差点に山のようになっていた。トラックもない。がれきは江戸時代からあった都市内河川に埋め立てられた。そのため今後、東京直下型大地震のようなものがあったらがれきの行き場がない。

 戦後の処理は、やはり半世紀以上の時が必要なのではないか。

急速な経済復興は戦災でゼロになったからできたという人がいるが、体験した身としてはとてもつらかった。銀シャリというのは白米のご飯のことだが、子どもの頃はもう一生食べられないのではないかと思っていた。現実問題として麦飯とサツマイモを一緒に炊いていた。それがご馳走で、普段は農林1号という軍用アルコールをとるため栽培していた大きな芋しかなかった。運搬事情も悪かったので腐っていた。それが配給で来ていた。飢餓線上を生きていた。凍死、疫痢で死んだ子どもが多かった。食べるものを食べていなかったので、ちょっとした病気で亡くなって、小学校の同級生も少なからずなくなっている。

 

4 日中友好協会との関わり

日中友好協会には日中両国及びアジアと世界の平和確立に貢献することを目的とすることが定款に入れられている。これが入っているのは、日中友好協会しかない。戦争を経験していないとわからないが、戦争になったらどうしようもない。破滅の道を歩むしかない。今、。日本のまちは密集している。また高層建築が多い。これだけ高密度に密集していると原爆一つでアウト。ミサイルは周辺国は持っている。ロシア、アメリカ、中国、北朝鮮。戦争はもうできないと思う。

東京大空襲の本当の教訓は、日本の国土そのものが狭い島国で平地が少ない。山岳違いが8割。大都市圏が密集しており、戦争はできない。海運、船がなくなると海外から輸入もできない。飢餓線上至らざるを得ない。江戸時代の3000万人が自給自足をできる人口といわれている。今は1.2億余人になっている。これからの人たちに同じ目に合わせたくない。戦争を体験した世代はあの悲惨な戦争の惨禍を再び繰り返すことはない。戦争に対しては極めて厳しい目で見ている。

経済安定本部の調査課長(大来佐武郎)は池田内閣の時の高度経済成長策を書いた人。日本が敗戦のどん底を体験した人。戦争は割に合わないとわかっている人だった。戦後の被害報告書の序文では、戦争は絶対にいけない。後世の日本人にその実態を伝えようということで必死の思いで書いたことを記している。

 

東京大空襲だけではなく、日本全国他の都市も被害は大きい。原子爆弾を落とすところの候補の都市には通常爆弾を落としていない。と聞く。

最後で最大な空襲が原爆の投下だ。広島、長崎、小倉、新潟が候補に挙げられていたと聞くが、小倉で落とそうと思ったら天気状況が悪いので長崎になった。という。

戦争とは無残で無慈悲なものというほかはない。

犠牲となられた方々に心よりご冥福をお祈りするしかない。

(記録:伊藤洋平)

 

 


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