宇都宮徳一郎会長講演:2024年日中友好都市青年訪中団の経験から

2024年6月27日中国文化センターにて、当協会会長であり、公益社団法人日本中国友好協会に就任した宇都宮徳一郎が、当協会で実施した2024年日中友好都市青年訪中団の経験について、講演を行いました。

日中友好協会との関わりについて

私は、41歳、42歳という当時協会の中で最も若い立場で認定NPO法人東京都日本中国友好協会の会長に就任しました。

私の前の貫洞会長からは、この職は思った以上に重い立場なので、それを理解したうえで活動に入ってほしい。簡単にできるものではないということを言われたのを今でも覚えています。

その言葉を聞いて、自分が就任して良かったのかという迷いもありましたが、東京都日中友好協会の先輩のみなさまにご協力いただいたおかげで、活動を進めていくことができました。

公益社団法人日中友好協会については、加藤紘一会長のときに役員に就任しました。

当時からも大学生の交流が活発に行われていました。

近年では最も大きい交流としては、2017年に日本と中国の大学生1000人の交流が、北京大学で行われました。

私にとっても非常に大きな経験で、青年交流の力は大きいので、これをつないでいきたいと考えた次第です。

2024年日中友好都市青年訪中団について

5月26日から31日に訪問した東京都日中友好協会で実施した2024年日中友好都市青年訪中団についてお話します。

本事業は北京市人民対外友好協会の支援の下、実施したものです。

この時期、北京は普段は非常に暑いのですが、訪問した1週間は気温が25度前後で快適に過ごすことができました。

北京には大興空港という新しい空港ができました。

スイカの産地だったところが、ビジネス特区として新たな施設も続々とオープンしているところです。

北京中心地から1時間程度の距離で、渋滞も少ないということが特徴です。

コロナ前と比べての変化としては、北京がきれいになったということを感じました。

空気、トイレなどもそうですが、前門を散策した際には、落ち葉もないような状況でした。

話を聞いてみると、周辺の人たちがすぐに掃除をしてきれいにしているということでした。

大学交流では、中国政法大学で1日かけて交流会を行いました。

中国政法大学には、日本語学科があるわけではありませんが、第二外国語で日本語を学んでいる方が通訳もされました。

学生同士が交流して、SNSを交換して、帰国後も継続して連絡を取っているということがすばらしいと思います。

帰国報告会でも、参加者から「友人が作れたということがうれしく、今後もこの関係を続けていきたい」という発言が多くありました。

北京市人民対外友好協会の担当の盧燕寧氏に、はじめて中国を訪問する学生にどうおもてなしをするかということを意識したすばらしいプログラムをアレンジいただきました。

万里の長城はロープウェイのある慕田峪長城に訪問しました。

5月30日に大手のIT企業快手を訪問し、副総経理にご対応いただきました。

その様子はテレビ朝日の取材が入り、日本でも報道されました。

副総経理は、早稲田大学に3ヶ月、新潟の大学に2年間留学した方で、日本のことも良く理解している方でした。

社員も1.5万人がいて、8000人が一緒に食べられるカフェテリアを見学しました。

設立して十数年ということでしたが、規模の違いを実感しました。

参加した学生も目を輝かせて、驚きながら見ていたことが印象的でした。

北京オリンピックが開催された会場を見学した際には、ちょうど青少年のフィギアスケートの検定会が実施されていた中で見学しました。

大きな病気もなく、無事に帰国できたすばらしい交流になったと思います。

青年訪中団をはじめから最後まで同行したのははじめての経験だったため、私自身も良い経験となりました。

今回の訪中団には173人の応募があり、92人が訪中しました。

中国語上級レベルが6人、ある程度わかるという人が15〜16人いました。

中国語ができる学生には、私のあいさつを通訳してもらいました。

これだけの人数が中国に興味を持ち、学び、訪問したいという気持ちをしっかりと受け止めて、このような事業を継続する必要があると実感しました。

宇都宮徳馬第三代公益社団法人日中友好協会会長について

宇都宮徳馬は陸軍大将の宇都宮太郎の長男として生まれました。

陸軍幼年学校を出ましたが、父の太郎が63歳でなくなり、その後、関東大震災が起きる中で、罪のない外国人が殺されるのを自分の目で見て、何かが間違っていると強く感じたようです。

その結果、陸軍には入りませんでした。

旧制水戸高校に留学して、その後京都帝国大学の経済学部に進学しました。

在学中には、検挙され、留置されるという事件があり、その様子を宇都宮太郎大将の子どもが検挙されたとメディアは報じたそうです。

その後、株で資産を得て、ミノファーゲン製薬のもととなる会社を設立しました。

2.26事件など世の中が厳しい時代になる中で、読売新聞で軍を批判するような原稿をペンネームを使って書いていました。

交友関係は幅広く、文學界など青年期の宇都宮徳馬の経験が戦後、会社の事業、政治家、平和運動を進めていく中で形成されてきたと聞いています。

昭和12年に私の祖母にあたる遼子と結婚しました。初代の満州国総務長官の駒井徳三の娘です。

岳父となった駒井徳三がミノファーゲンという会社の名前についてアドバイスをしたと聞いています。

宇都宮徳馬への印象について

私が覚えているのは、自民党から飛び出して無所属で参議院議員として立候補をした頃からのことです。

軍縮という雑誌を発行するということを選挙公約とし、亡くなる直前まで発行し続けました。

1989年8月に「軍拡無用」という本を中国語に翻訳して出版したことで、名誉法学博士を北京大学から授与され、その時にはじめて北京を訪問しました。

その時、北京が厳戒態勢の中のことでしたが、北京大学では熱烈な歓迎を受けたことを覚えています。

祖父からは学生の交流は大切で、これからを担う日中両国の学生の交流を継続しなくてはいけないということを聞いています。

祖父は、日中友好協会の会長を1992年まで務めました。

今回、青年訪中団には親御さんが訪中することに反対をしたにもかかわらず参加したという人が何人もいます。

今回、青年が今の中国を知り、理解したと思います。

彼らがリーダーになる世代になるまでつむいでいくことが大切ではないかと思いますし、そのような活動を進めていきたいと考えています。

ご清聴ありがとうございました。

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