2024年3月28日竹内亮監督による「私が中国で最も有名な日本人ドキュメンタリー監督になった理由 ー『 劇場版 再会長江 』上映を前にして思うことー」を実施しました。
自己紹介
- 南京女婿
- ドキュメンタリー監督
- 我孫子出身
ということを中国では自己紹介のときに話しています。
中国語のわかる方には理解できるかと思いますが、我孫子というのは、中国語で私の孫という意味なので、我孫子出身というのは中国人からすると「私の孫出身」という意味になるので、笑ってくれます。
南京に住んでいると、日中間で悲しい出来事があったところなのに、南京になんで住んでいるかと言われますが、その答えは、愛人、老婆です。
この2つの言葉は、日本語では違う意味ですが、中国語では両方とも妻という意味です。
たまたま妻の出身が南京だったので、南京に住んでいるというのが実際の理由です。
その他にも日本語の漢字と中国語では同じ文字でも違う言葉があります。
たとえば、丈夫という言葉は、中国語では夫という意味です。
日本では夫は他に主人、旦那と言いますが、中国語では丈夫とか老公という。
主人という言葉を中国人が見ると、日本は男尊女卑だなと言われます。
同じ漢字を使いますが、違うなと感じる点です。
ここが変だよ中国人
僕は、日本にいたときに4つのショックを受けて、中国に移住しました。
はじめて中国に行ったのが、2002年に麻雀の起源を探るという番組の撮影でした。
麻雀を発明したのは誰が、どこでだったかご存知でしょうか。
四川という人は多いですが、寧波だと言われています。
しかし、それも確定ではなく、蘇州や天津という説もありました。
その時にショックを受けたのが1つ目です。
自分に素直な中国人にショックを受ける
それは、小さな商店に行って水を買ったときのことですが、釣り銭を投げらて返されたんですね。
日本ではありえないことです。
なんという国だと思いました。
しかし、その次の日次の日行ったら、今度はつたない英語で話が盛り上がるほど、非常にフレンドリーな対応だったんですね。
おそらく、前日はなにか不機嫌になることがあったのだと思うのですが、中国人は自分に素直な人なんだなと思いました。
日本ではお店に行っても、毎日同じように笑顔で対応をされます。
それが面白いと思いました。
また、外に出たら化粧をしている女性がいませんでした。
日本では女性は基本的に化粧をしています。
それを見て、ショックを受けるとともに、中国の面白さを感じたところです。
その後、中国関係の番組を作るようになったのですが、2つの番組製作が大きなターニングポイントになりました。
1つは、2005年、中国人観光客の特集をしたことです。
そこで妻に出会いました。
中国人観光客を取材する時に通訳を担ったのが妻でした。
そこで一目惚れをして付き合うことになりました。
そこから本格的に中国にのめり込みました。
2つめのターニングポイントは後ほどご紹介します。
結婚に反対される
ショックの話に戻りますが、
2つめのショックが、結婚を申し込んだのですが、反対されたことです。
南京の人だということもあり、妻の両親話日本人にはあまり良い印象は持っておらず、日本人と結婚は許さないということで反対されました。
それに加えて、私が家事ができないということで嫌われてしまいました。
奥さんの実家に行ったときには夫は家事を手伝うのが中国では高評価を得られるポイントなのですが、私は家事ができなかったんですね。
最終的には結婚ができたのですが、結婚できたのは、三顧の礼でした。
実際に3回南京に行きました。
3回目の結婚のお願いが終わった2〜3ヶ月後に仕方ないということで諦めてくれて、結婚に結びつきました。
諸葛亮孔明の時代と同じ方法が今も使えるのだと思いました。
ちなみに、これまで暮らしてきて、南京で日本人だからといって、嫌な思いをしたことは一度もありません。
南京は外の文化にも開放的で、外国の文化などをオープンに受け入れる都市です。
地方の中国人が今の日本のことを知らない衝撃
ターニングポイントの2つ目の話にも度入りますが、2011年にNHKの長江 天と地の大紀行という番組を撮ったことです。
その時は、1年かけて長江をまわったのですが、この時に初めて中国への移住を考えました。
2011年なのですでにフェイスブックもあって、ネットも発達しているのに、中国の地方を訪問したら、中国人から聞かれるのが「高倉健は何をしているのか、山口百恵は元気か」ということだったんですね。
今の日本を全く知らないことに衝撃を受けました。
また、小日本が来たといった悪口も言われました。
そういったことに接したことで、今の日本を中国の人たちに伝えたいと思いました。
中国語を全く話せなかったので勉強したいということもありました。
また、制作した「長江 天と地の大紀行」の内容に納得もしていませんでした。
当時は31歳。人生のいろはもわからない若造が、雄大な長江によく挑んだなと思います。
悠久の大河と言いますが、歴史、深い部分がとらえられておらず、なぜ中国人がこういう生活を送っているかといった背景がわかりませんでした。
また、通訳を介してインタビューをすると、深い付き合いもできません。
私と長江沿いに住む人たちとの間に距離ができてしまいます。
取材者と被取材者の関係で友だちになれません。
そのため、目で見たものをそのまま撮っている形で、背景にあるものを撮れていませんでした。
オリジナリティのある映像が撮れる理由
最近は、取材者と被取材者の壁を超えられるのはどうしてかという質問を受けるようにもなりました。
私自身もよくわかりませんが、2つあるのではないかと思っています。
1つは、僕が中国人のことを好きだから。
私が好きになれば相手も好きになってくれる可能性が高くなります。
中国を利用して金儲けをしようという想いであれば、自然な姿は見せてくれないと思います。
もう1つは積み重ねです。
日本のメディアに対しては中国の人たちは表面のきれいごとしか言いません。
それは、日本のメディアは中国をバッシングすると知っているからだと思います。
しかし、竹内は自然に話しても良いだろうという信頼関係のもとで、自然な状況を見せてくれると思います。
中国語の勉強方法
中国語はどうしたら話せるようになるかというと、努力です。
中国語は南京大学に通って、1日12時間ぐらい3ヶ月勉強してできるようになりました。
中国ドラマをたくさん見ました。
1時間のドラマを5時間かけて見ていました。
それを繰り返して、1時間ドラマを1時間で見終わった時の達成感がすごいです。
30代で中国語を学び始めて、今はそこそこ話ができるようになっているので、いつはじめても遅くないと思います。
中国へ移住したいと伝えたら、中国人の妻に反対される
4つめのショックについてです。
2011年に移住したいと妻に伝えたら、絶対反対と言われました。
すでに日本に家を35年ローンで買ったのに中国でゼロからスタートするのかと反対されました。
さらに、2012年に尖閣諸島問題が発生しました。
それによって、両国の印象がガラッと悪くなりました。
周囲の人たちからも、まだこういう状況でも中国に行くつもりかと言われました。
ただ、当時は中国にあまりどっぷり使っていなかったので、尖閣問題はあまり影響がありませんでした。
戦後の日中両国関係を振り返ると、2000年代は中国旅行ブームがあったようで、2010年に中国のGDPが日本を超えたぐらいから中国バッシングの報道が増えて、悪くなっていきました。
中国の悪い報道が出ていくことで、中国に対する印象も下がっていくという状況でした。
しかし、この尖閣問題は5つめのショックとはなりませんでした。
1980年代に日中関係の黄金時代があったということは知っていました。
しかし、実際に感じていたわけではありません。
日中関係は常にアップダウンがあると思っているからです。
今より悪くなることはないだろうと思っていました。
そして、2013年に南京に移住しました。
説得できたのは2年間ずっと折に触れてやっぱり行きたい、やっぱり行きたいと行っていました。
とにかくしつこく説得しました。
具体的な方法は忘れましたが、最後は奥さんが折れてくれました。
やると決めたらやるということでした。
日本を伝えたいと行っていますが、当時は33歳で仕事に飽きてきて、新鮮なところに行きたいという思いもありました。
そのあたりを考慮してくれたのかと思います。
就職して10年で、このまま日本のテレビで働くので良いのかということも思っていました。
2024年に新たな挑戦 劇場版 再会長江
高校生の時に映画監督になりたいと思って映画の道を志しました。
当時は勉強が嫌いで映画ばかりを見ていたのですが、猿の惑星を見て、映画監督になりたいと思いました。
30年かかってようやく夢が叶います。
4月12日に日本全国で上映になります。
ネット版とは話が違います。
また、2023年に有楽町シネマでテスト上映しましたが、それとも変えています。
2023年に上映したドキュメンタリーバージョンは日本人向けのものだったので、中国人も日本人も面白いものにしようと思い編集し直しました。
2024年5月下旬に中国全土で上映予定です。
日本人が見たいものと中国人が見たいものを両立させることに時間がかかりました。
このバージョンを見たことがある人はまだ一人もいません。
今回、日本と中国の両方で上映ということで両国の違いも学びました。
それは映画のポスターです。
中国は情報はない方が良いのですが、日本は情報があればあるほど良いというものでした。
日本の映画のポスターは文字や一コマ一コマの映像がたくさんあるのですが、中国は風景1つだけということもあります。
日本の映画のポスターは足し算。かっこよさよりも情報を重視します。
中国はかっこよさがメインです。
また、日中の仕事文化の違いもわかりました。
日本では宣伝会社が半年しかないと焦っていました。
一方で、中国の宣伝会社は5月下旬に公開予定なのに準備が始まってもいません。
この違いが面白いと思います。
中国は1.1万館で公開するのに対して、日本は40館ぐらいです。
でも、中国の会社はあと2ヶ月もあるということで何もしていません。
なぜ日本で中国の映画を上映できたのか
中国に関する映画を日本で上映するというのは非常にハードルが高いと言われています。
それにもかかわらず、なぜ日本全国上映できたかというと3つの理由です。
1つは、面白いから。
2点目は、日本人が中国の歴史ものが好きだから。
3点目は2023年の上映でたくさんの方々にご覧いただけたからだと思います。
実は、儲けるなら中国の方が1.1万館で上映するので、そちらに力を入れたほうが良いですが、日本での広報に力を入れています。
それは日本の大手メディアが伝えない中国を伝えたいという思いからです。
在日中国人の子どもたちが中国を嫌いになっていくという現実があります。
それは日本の大手メディアでのネガティブな中国報道を受けてです。
そういった子どもたちに見てもらいたいと思っています。
中国と接点のない日本人の人と話をしていると、中国に行くのが怖い、捕まるでしょという話になります。
そんなことはありません。
撮影して捕まるのであれば、今の私はありません。
この映画は、コロナの期間だったので撮影に2年間かかりました。
しかし、コロナで各地に人がいないので、今行ったら旅行客だらけのところを人がいない風景で撮影することができました。
中国での生活を続けたい理由
日本は信頼社会で、中国は人情社会だと感じています。
信頼社会では、信頼得るのに時間がかかり、保つのも大変です。
中国の人情社会が好きなので、ずっと中国にいます。
日本はあくまで出張でと考えています。
日中平和友好条約が締結されたのは、1978年10月23日でした。
その日に鄧小平首席が日本へ来て、日産やパナソニックの見学をして、その後の中国ができています。
実は、この1978年10月23日は私の誕生日です。
私の家庭は一般的な家庭で中国と何の関係もありませんでしたが、このことは私の運命だと思っています。
日中関係は米中関係の影響を受けているので、そこが変われば黄金時代に戻るのではないかと思っています。
しかし、何もしないと消えていくので、日中交流をする人は少数派ですが、そういう少数派の私たちが消えると消えてしまいます。
活動を継続することが大切かと思います。