【青年委員会BLOG】東洋のパリ━上海、どうしてこうなった? No.42

あなたは上海が好きだと思ったことがあるだろうか。ここで「ないです」と言われたら、
この投稿は出だしで転んでしまう。
どうか家で寝転がりながら読んでほしい。

上海、略称「沪」別称「申」

2021年3月の世界金融センターランキングによると、ニューヨーク、ロンドンに次ぐ第3位の世界都市である。
中国にいるにも関わらず、街並みはロンドンやパリを思わせる様々な顔がある上海。
今回の投稿では、その上海の発展の土台を振り返りたいと思う。

このブログを投稿するにあたって、わたしは上海のインフルエンサーでもなければ、歴史家でもない。
青年委員会のブログを書く人としては、だれにも知られていない。
そもそもこの投稿自体が初めての投稿である。

聞かれてないが、簡単に自己紹介しておこう。

わたしは、髙木申一という。
よく新一とか、伸一と間違えられるが、申一である。
ちなみに蘭という女性にはまだ一度も巡り会えたことがない。

そんなわたしは、1992年に上海市の红房子医院で長男として生を受けた。
そう、この申という字はこの上海の別称からきている。
日中ハーフとして生まれたわたしは、上海が発展していく様を確認しながら
「上海に生まれてよかった」と心から思っている29年であった。

勘違いしていただきたくないが、決して他の地域を見下しているわけではない。上海が最高すぎるのだ。

ちなみにわたしの名前に使われている別称の「申」という文字は、
春秋戦国時代に上海あたりを楚国の春申君が統治していたためであるとされる。
春申君といえば、秦国の最大のライバル趙国と連合を組み、
李牧と並んで強キャラとして君臨していた。

 


出典:キングダム コミックスより

キングダム読者の方であれば、この時点で上海が好きになるはず。
まぁ、その春申君も漫画での最期は嫁の兄が放った刺客にあっけなく斬殺される訳だが。

さて、話を戻すと、上海の発展の始まりは1840年の清王朝時代まで遡る。
イギリスは紅茶の需要増加による中国茶の貿易取引により、大量の銀が流出していた。

それを良しとしない、大英帝国(以下イギリス)は中国にアヘンという麻薬を密輸することを画策した。
アヘンは常習性があり、乱用すると廃人同様になってしまうため、
アヘン購入のため今度は清から銀が流出してしまう。

アヘンを楽しむ廃人たち

そこで清はアヘン厳禁派の官僚を広州に派遣し、1425tのアヘンを没収・焼却市、アヘン貿易を禁止した。
それに反発したイギリスが、1840年にアヘン戦争を仕掛けたのであった。

悪魔的発想・・・・・・
脳みそがキンキンに冷えてやがるぜ。

結果はご存知の通り、清国の惨敗。
産業革命を経た近代兵器の前に、眠れる獅子は起こされもせず、
あっけなく敗れたのであった。

「ちょっとー、7時に起こしてっていうたやん。なんで起こしてくれんかったんさー」
と獅子もご機嫌ななめでおかんに八つ当たりしていたかも知れない。

イギリスの蒸気船の前に清の帆船は破れ去る

この結果を目の当たりにした日本の幕末の志士達がこのままではやばいと奮起するのは、
また別の話である。

1842年アヘン戦争で清国は敗れ、イギリスは南京条約で多額の賠償金と共に上海を開港させ租界地を設置した。

そして1944年、なぜか便乗したフランスとアメリカもそれぞれの租界を設置した。
もうここまで来ると怒りを通り越して、獅子も泣けてくる。
「あの時は、八つ当たりしてごめんな。」
とおかんに謝罪でもしてそうなものだ。

1845年に英租界地には50人ほどのイギリス人しかいなかったが、
1965年には共同租界地と名前を変えて2297人まで数を増やした。
次いでフランスが460人と外国人は2750人であった。

当時の欧米列強国は、中国のことを野蛮な国だと思っていたので、
自分たちを上海の土地や風俗に合わせるつもりは毛頭なかった。
そのまま自分たちの文化様式をそのまま上海に持ち込んだのであった。
その結果当時の最新の建築技術を使ってそれぞれの租界地に各国の建築様式の建物が並んだ。

だから上海の街にはヨーロッパが残っているのだ。


まずは、上海のランドマークともいえるバンド。

なぜバンドと呼ぶのか生まれてこの方29年間ずっと謎に包まれていたが、
当時イギリスの植民地であったインドの言葉で「埠頭」を意味するらしい。
ずっと謎に包まれていたが、明かしてみると案外どうってことはない。

著者撮影

ここは、貿易の拠点としてイギリスの租界地の中心として構えられた。
自由貿易という名の下に、アジア中の物資が集まった。
現在のビジネスの中心地として上海が発展したのはこの基盤があったからであろう。

1940年代にはすでに、HSBC(香港上海銀行)や時計台のある江海関といった建物が並んだ風景が完成していた。
また、南京東路を通ってバンドにつながる人民公園も当時イギリスの娯楽であった競馬場の跡地であったという。

ちなみに上海でも、23区民にあらずは都民にあらず。というような区カーストがある。
典型的な老上海人の中には、まずどこに住んでいるかでマウンティングを取ろうとする人もいるから気をつけよう。
うっかり下只角に住んでいることを明かそうものなら、田舎者認定されること間違いなしだ。

ちなみに上只角はイギリスを中心とした共同租界地とフランス租界地の跡地で形成されている。
静安区、徐匯区、今はなき盧湾区がそうだ。そしてそれ以外が下只角。

次に、フランス租界地。
ここを拠点としていた外国人は
ビジネスのオフィスは別に共同租界地に構えた。
その代わり自分たちの租界地で音楽・演劇などの芸術活動を盛んに行い、上海の文化の基盤を作った。
ビルが並ぶ共同租界地とは打って変わり、並木道が並ぶ綺麗な街なみがなんともロマンチックである。

著者撮影

そういえば、日本人学校などがあり、現在も日本人が多く住んでいる虹口は日本人租界地の跡地であった。

これら租界地で使用人として使えた中国人は彼らからビジネスの手法を学び、
第二次世界大戦終結後に各々のビジネスを始めていき、富を築いていったのであった。
転んでもただでは起き上がらないしたたかさに脱帽するばかりである。

かくして、上海の綺麗な街並は、決して建物だけ真似て建てたハリボテではなく、
そこには、実際にイギリス人やフランス人がそれぞれのスタイルで生活していたのだ。

今の国際都市としての上海の繁栄と栄華屈辱の近代史という代償を払った基盤の上に築かれたのである。

もちろん、わたしはイギリスやフランスになんの恨みもないし、復讐してやろうとは考えていない。
ただ、上海の先人たちが苦汁を舐めた結果の上に今の上海があることに思いを馳せると、
やっぱり上海って最高だなと思うのであった。

大事なことなので二度いうが、決して他の地域のことを見下しているわけではない。

以上、今まで知らなかった上海の歴史を今回改めて知ることができ、上海に対する思いが募るばかりである。
早く上海に帰って小籠包を浴びるほど食べたい。

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